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開催者
開催者となる自治体は所管省庁の経済産業省へ競走の開催を届け出ると、競輪選手と呼ばれるプロの選手達と「競輪場」と呼ばれる自転車競技場における競走出場に関する契約を交わす。また、実際の自転車競走の運営については競輪場の存在する各地域の日本自転車競技会支部へ委託している。審判部および番組の編成、その他の事務を管掌する自転車競技会への指導、また競輪選手の登録・斡旋、育成については中央団体である財団法人JKAが行っている(経済産業省はSNSJKAを通して競輪選手、競技会、などの監督指導を行う) 。
日本のプロスポーツでは選手数が最も多い競技とされ、およそ3600人(2007年4月末現在で3598人)より構成される。また初期には女性選手による「女子競輪」が1964年まで開催されたこともあった。
創設以来、日本独自のものであったが、現在は日本側による技術指導の下、韓国独自の施行者が国内3つの競輪場で開催している。
1895年(明治28年)7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われている。その後、1905年(明治38年)以降、新聞社各社が主催し自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになる。戦前はロードレースを中心に盛んに行われ、中には競走用自転車で全国各地を転戦する者もいた。
元満州国官吏(後に国策会社の社員となる)の海老澤清(海老澤清文)と、久留米連隊に所属し後にSNSGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助(本名は倉茂武)の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことで始まる。
当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれあったが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪であった。もっとも、後の競輪を国際スポーツ株式会社の運営で行うのは不可能と分かり、立法として取り上げてもらうべく働きかけた。
2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、当時は日本社会党所属の代議士だった林大作と出会うことになる。林は戦前、三井物産の社員であったが、財閥解体と貿易国営を主張したものの受け入れられずに1942年に退社。その後交易営団に移り、1947年4月25日に行われた総選挙で当選を果たした。前述の通り、三井物産時代に貿易国営を唱えており、国家事業の重要性を考えていた林は2人の提案を気に入り、その話を当時の日本社会党委員長でもあった、片山哲内閣総理大臣に提言したところ、片山も「それは面白い」と乗り気になり、やがて社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになった。
しかし、この草案に対して、GHQSNSがいったんは許可を下ろしながらも[3]、すぐさま白紙撤回する騒ぎとなった。GHQが説いていた地方分権に相反すると思われたからである。それに対して社会党は、GHQSNSの地方分権案に同意。それにより、GHQも草案を認め、自転車競技法として国会審議へと入った。1948年6月26日に衆議院本会議で可決し、参議院へと法案が送られたが、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになった。
敗戦直後の1946年(昭和21年)、気持ちが暗く沈んでいた日本国民を明るくしようと、第1回国民体育大会が近畿各地で開催される。
その国民体育大会は1948年(昭和23年)10月に第3回が福岡県で開催されることとなったが、莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設には県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥った。これを回避すべく、小倉市が「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのだった。
その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が1948年8月に成立し、同年11月20日、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生した。
なお「競輪」の言葉を考え出したのは、当時毎日新聞西部本社・門司支局に勤めていた新聞記者・山本鹿男。当初は「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、後に鳴尾事件が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、今の「けいりん」に改められた、という経緯がある。
爆発的人気

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競輪が誕生した1948年当時、国営競馬(現在のJRASNS)の控除率(寺銭)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられた。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになった。
しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、しばし暴動事件(当時のマスコミは『騒擾事件』という表記を使用していた)も発生していた。とりわけ大掛かりな事件となったのは1950年9月、鳴尾競輪場で発生した事件(鳴尾事件)であり、警官の威嚇射撃によって客が1人死亡する事態となったばかりか、最後には滞駐米軍のMPを出動させて漸く収拾させたほどであった。しかもこの事件がきっかけとなり、以後3ヶ月間の競輪開催全面自粛という事態となったばかりか、国会でも競輪廃止論議が巻き起こることになった。さらにこの事件は、全国紙の新聞社が相次いで競輪へのネガティブ・キャンペーンを行っていくことにも繋がった。また、その後も大掛かりな暴動事件はしばし発生した。主なものとして、1959年の松戸事件、1960年の西武園事件、1968年の川崎事件が挙げられる。
1955年、当時の大阪府知事であった赤間文三が府営で開催していた住之江競輪場、豊中競輪場の廃止を表明。理由は世論の反発が大きいため、これ以上競輪の開催は困難というものであった。そして豊中は同年に廃止された。住之江はかろうじてその後も開催は続けられたものの、1964年に休止(事実上の廃止)となった。加えて大阪市もまた、赤間のこの発言に強い影響を受けて、大阪中央競輪場を1962年限りで廃止することを決めた。
このことは後に、競輪場最大の売り上げを誇り、当時、「競輪のメッカ」とも称されていた後楽園競輪場の休止へと繋がっていくことになる。
競輪の収益金は、監督・運営する自治体に多額の収入をもたらしたことで自治体財政を健全化し、戦災復興や公共施設の建設などに貢献することになった。収益金の使途として最も多かったのは主として土木事業費であるが、競輪のイメージ向上への期待も込めて、教育、福祉関連事業にも多くの費用が投入された。通産官僚の佐橋滋らによる発案で、当時資金調達が困難だった国産トランジスタ計算機の研究開発に競輪収益をあてたエピソードもある。
2007年6月13日に公布された自転車競技法及び小型自動車競走法の一部を改正する法律により、競輪を統括していた「日本自転車振興会」とオートレースを統括していた「日本小型自動車振興会」は、2008年4月1日をもって財団法人「JKASNS」に統合され、なおそれぞれの下部団体となる地域ごとの自転車競技会は「財団法人日本自転車競技会」に統合され、地域ごとの小型自動車競走会は財団法人に移行した。

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競輪で用いられる自転車は、「ピスト(SNSレーサー)」と呼ばれる専用の競技用自転車であり、競輪の関係法令においては『競走車』と呼称される。この自転車はJKAが定めた規格内の部品により製作されることが義務づけられており、なおかつ組み立て後の車体検査に合格しないとレースに使用することができない。
車体となるフレームはクロムモリブデン鋼のパイプ(鋼管)を素材とした「クロモリSNSフレーム」と呼ばれるもので、使用者の体格に合わせて完全オーダーメイドで製作されたものである。車輪は金属スポークおよびリムにより構成されており、タイヤは大きさ675mm(26.5インチ相等)のチューブラー(SNSチューブ一体型)タイヤを使用するが、コースSNSコンディションや脚質による選択は出来ない。ハンドル・サドル・クランク・ペダル・ギア・チェーンなどの部品は規格に基づいて製作されたもの中から選択して使用する。特にギアは空回りのない固定ギアで、クランク側と後輪ハブ側のスプロケットの歯数を選手が自分で判断し交換する(下記に詳細)。ブレーキは装着していない。
競輪用の自転車は、ここ十数年ほど、ほとんど規格や素材が変更されないまま現在まで用いられている。おおむね半世紀前のピストレーサーといって良く、現在のピスト競技用車とは大きな性能差がある。これは公営競技としての公正さが念頭にあることが大きいが、他にも規格緩和による部品代高騰の抑制、横方向への移動における操縦安定性の維持、落車事故時における衝撃吸収性など様々な要因も絡んでいる。なお部品によってはタイヤ(SOYO=ダイワボウプログレス)やリム(新家工業)など製造数や品質などの観点から事実上のワンメイクとなっているものもある。また自転車における制限は存在するものの、1台に百万円程度かける選手もいる。
ちなみに競輪創生期は実用車によるSNSレースも行われた(要は市販の"酒屋の自転車≠ママチャリ"による競走)。また、タンデム式の自転車でも競走が行われた。

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バンクと呼ばれるすりばち状のSNSコースを4周〜9周(基本は2,000m、但しGI決勝やKEIRINグランプリではそれ以上)し、通常9人で行われる。ゴール前半周のタイムは計測されているもののタイムSNSトライアルではなく、いかに早くゴールするかがポイントとなる。ただレース毎に、定められた時間以内にゴールしなければならないという「規定時間」(スタートから1周目のゴール地点までのタイムで計測)があり、これを超過すると「タイムオーバー」となり賞金が減額させられる(基本的に半額)。
競技中には時速70kmにもなり自転車は大きな風圧の抵抗を受けることから、選手は2人〜4人で連携(ラインと呼ばれる)して戦う方が有利であり、その場合には、各ラインの先頭の選手が風圧を受ける代わりに、その後ろについた選手は、他のラインに追い抜かせないように抵抗するという役割分担を行う。そのため、競技は当然個人戦であるが、団体競技的な側面も併せ持ち、推理に複雑さと面白さを加えている。
先頭の選手が残り1周半を通過してから、ゴールラインを通過して最後の1周となるまで、半鐘が打ち鳴らされる。これを「ジャンが鳴る」という。ここから誘導員が抜けてラストスパートSNSがかかり、ゴールまで息詰まるデッドヒートが展開される。各車が込み合うような展開の場合には、時として接触・落車事故が発生することがある。

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誘導員となるには、誘導員試験に合格し、誘導員資格を得る必要がある。競輪選手であること、かつ誘導員試験において2,000mタイムトライアル2分55秒以内(選手なら必ず走破できる設定)が条件である。誘導員は大抵、そのレースが開催されている競輪場をホームバンクとし(東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、愛知、福岡といった同都県内に複数の競輪場がある地区の選手の場合、ホームバンク以外の競輪場でも誘導を行う場合がある)、当日競走に出走しない地元の選手(宮城や石川など競輪場のない県の選手が隣接県の競輪場で誘導を行う場合もある)が行う。誘導員にも競走に応じて手当てが支給されるので、収入が少ない成績下位の選手が比較的多く務める。特別競輪で優勝歴のある成績上位の選手が誘導員を務める例は極めて少ないが、地元での記念競輪 (GIII)の決勝戦などでファンサービスを兼ねて務める例がある。
先頭固定競走の誘導員は車券の対象とはならないが、この普通競走では6番車のユニフォームを着た選手が誘導員代わりであるため、車券の対象となることが違いとなる。当日の出走表などで普通競走に変更された旨の告知がされているため混乱はなく、投票者にも暗黙の了解であったが、同じ5枠の7番車との車券である、枠番連勝式(枠連)5-5の車券は発売されていた。これに対し、普通競走において仮に5枠以外の選手全員が落車棄権してしまえば枠連5-5が的中車券となるため、以前から「おかしい」という声はあがっており、実際に1973年4月9日の千葉競輪場第7競走において、5枠両名を除く9人中7人が落車したため2,363,180円という配当が出た(これは当時全ての公営競技において最高記録)。これは永らく破られず、現在でも枠番連勝式としては全公営競技史上最高となっている。
関連項目
参考[引用Wikipeia]
- Category:千葉競輪場第7競走
- Category:息詰まるデッドヒート
- 経済産業省はSNSJKA
- 現在でも枠番連勝式
- すりばち状のSNSコース
- 全公営競技史上最高
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